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第87回例会

2015年10月8日(木)

東京芸術座公演 

  蟹工船

スタッフ
原作=小林多喜二 

脚色=大垣肇 

演出=印南貞人 川池丈司

キャスト 川副博敏 北村耕太郎 井上鉄夫 
     笹岡洋介 浅田和子 芝田陽子 岡田恵 
     田中昭子

(あらすじ)
昭和のはじめのころ――食いつめて“自分を売る”より仕方がなくなった男たちが、函館の港に集まってきた。博光丸はボロ船で、カムサッカの荒海でメリメリと音をたてて鳴っている。漁夫、雑夫たちは重労働と粗悪な飯で身体を悪くした。何人もの漁夫がこの北の海で死んだ。「このままでは殺される」…大時化の時も出漁の命令が下される。彼らはおっかなびっくりサボが始まった。そして遂に、自分たちの力でストライキを起こし、“要求”を突き出した。しかし、待っていたのは味方と思っていた帝国海軍による弾圧と逮捕であった。だが、会社と軍隊の正体を知った彼らは「ん、もう一回だ!」
 彼らは立ち上がった――もう一度。





今例会のみどころ「蟹工船」

いよいよ、「蟹工船」です。原作は、プロレタリア文学として知られる小林多喜二の小説。
昭和の初め、蟹工船で過酷に働かされる労働者たちの苦しみを描き、彼らが会社側に労働条件の改善を訴えるために立ち上がる群像劇です。
数年前、必死で働いても生活が豊かにならない現実が、作中で描かれる労働者の姿と重なるとして、若者の間でブームになりました。
蟹工船は戦前のカムチャッカ半島海域の北洋漁業で操業した、加工設備を備えた大型船。
作品の舞台となる「博光船」はボロ船で、搭載した小型船(川崎船)で蟹を獲って缶詰に加工していました。
貧しい農民、炭坑などで働いていた日雇い労働者、訳もわからずに斡旋人に連れてこられた学生など、国策を盾に、1日16時間、劣悪な労働環境の中で働かされます。
暴力や虐待、過労や病気で倒れるものがいるのに、船舶ではない加工船には船舶法は適用されず、かといって工場でもないので労働法も適用されません。
蟹工船はまさしく、法の網をかいくぐって貧しい労働者をこき使うブラック企業でした。
舞台は船上。シケの時は背景が灰色になり、水しぶきが交互に飛んで船が大きく揺れる様子は、酔いそうなくらいリアルです。
舞台上で30数人が、船の揺れに合わせて同時に揺れたり、転けたり。バラバラだったみんなの気持ちが一つになっていく後半は、一気にストーリーに引き込まれます。
組合とか、労働者の団体要求とか考えられないような時代に、一致団結して立ち上がる彼ら。
しかし、味方だと思っていた帝国海軍は献金で会社と癒着しているという現実。それでも、彼らはまた立ち上がろうとします。
労働歌など知らない労働者が、万感を込めて歌う「ソーラン節」。
ラストの大合唱は、本当に圧巻! 劇場でぜひ、味わってください。

(松井C 松井由美子)


「蟹工船」 原作者 小林多喜二

1903年に東北の貧農の家に生まれた。
親に楽をさせる為に苦学して小樽で銀行員になり、21歳で仕送りの出来る安定した生活を営めるようになる。
小市民的な幸せな未来が目の前に約束されていた。
ところが、軍国化を進める政府によって、1928年3月15日未明に全国で数千人の反戦主義者を逮捕する大弾圧事件が起きた。
多喜二の周辺でも友人たちが続々と連行されていった。
彼は日記に記す。「雪に埋もれた人口15万に満たない北の国から、500人以上も“引っこ抜かれて”いった。これは、ただ事ではない。」
貧農出身の彼はもともと権力・抑圧者への反抗心を持っていたので、この3・15事件は多大な影響を与えた。
保釈された友人たちから過酷な拷問の話を聞くに及んで、元来読書好きの彼は事件を小説にして世間に国家の横暴を訴える決心をした。
彼はまた、権力と戦う人物を欠点や弱さも兼ね備えた人間としてリアルに描き、安易に英雄像を作らなかった。
「完成した作品『1928年3月15日』は、特高警察の残虐性を初めて徹底的に暴露した小説として世間の注目を浴びたが、これによって彼は特高から恨みをかうことになり、後の悲劇を呼ぶことになる。
翌年、26歳の彼はオホーツク海で家畜の様にこき使われる労働者の実態を告発した『蟹工船』を発表する。
蟹工船は過酷な労働環境に憤ってストライキを決行した人々が、虐げられた自分たちを解放しに来てくれたと思った帝国海軍により逆に連行されるという筋で、この作品で彼は大財閥と帝国軍隊の癒着を強烈に告発した。
登場人物に名前がなく、群集そのものを主人公にした抵抗の物語は、ひろく一般の文壇からも認められ、読売の紙上では“1929年度上半期の最大傑作”として多くの文芸家から推された。
しかし天皇を頂点とする帝国軍隊を批判したことが不敬罪に問われ、『蟹工船』は『3月15日』と共に発禁処分を受けてしまった。
また、銀行からは解雇通知を受け取ることになる。
多喜二は腹をくくった。ペンで徹底抗戦するために名前を変え、身分を隠して各地を“転戦”する人生を選択した。
そして運命の1933年2月20日。非合法組織の同志と会うために都内の路上にいた所を、スパイの通報によって逮捕される。
この時、逃げようと走り出した多喜二に向かって、特高は「泥棒!」と叫び、周囲の人間が正義感から彼を取り押さえたという。
同日夕方、転向(思想を変えること)をあくまでも拒否した彼は、特高警察の拷問によって虐殺された。…まだ29歳の若さだった。


        小林多喜二                                   多喜二の遺体を見つめる母

「蟹工船」用語豆辞典


★蟹工船:カニを漁獲し、船上で缶詰に加工する工場施設を備えた漁船(工船)。
★中積船:内地から食料、手紙、小包等を、約1か月ごとに蟹工船に運び、出来上がった缶詰を積んで帰る船。
★川崎船(かわさきぶね):蟹工船に付属する和船、本船に八艘載せており基地として、直接漁業にでる。江戸時代「かわさき衆(河口に住み船で漁を行う集団をさす)」が乗る舟のことを言った。
★漁夫(ぎょふ):漁業に従事する人。漁師。
★糞壺(くそつぼ) 漁夫、雑夫の蟹工船における居室。ここで食事し、眠る。サロンの連中や船員が、あまり汚いので、あざけってこう呼ぶ。
★白首(ごけ):白い首の女の人。おしろいを首筋に濃く塗りつけた下等な売春婦のことをいう。
★だるま買:だるま(女郎)、娼婦を買うこと
★入地百姓(いりちひゃくしょう):生まれ故郷の土地を奪われた貧農が、北海道の未開墾地等へ移民してくること
★周旋料:雇主と求職者との仲立ち業者に支払う、仲立ち料金のこと。
★カムドク(カムサッカ・ドクトル):いわゆる普通の船医と異なり、蟹工船資本家側の便宜上の道具として慣らされた、したがって医者としての良心をマヒさせたカムサッカ航海用医師。
★プロレタリヤ:社会構造の最下層に近い位置にいる人々。

「蟹工船」運営サークル活動報告

前例会クリア会員数593名の上にひこね演劇鑑賞会を健全財政に戻す為の挑戦目標600名、正サークル数3サークル増を掲げて臨みましたが、結果は会員数595名(新入会21名)正サークル数2サークル誕生となりました。
前例会はクリアしたものの拡大率(運営サークル担当による新入会員数の割合)は21名中11名で52%、クリア率(運営サークル担当サークルのうち新入会員を迎えたサークル数の割合)は18サークル中5サークルで28%という低率で課題を残しました。
「魅力を知ろう会」で東京芸術座制作の嶋田みどりさんが作品の見どころや俳優さんの強い想い入れ、劇団の運営サークルに対する想いなどを熱く語られ何としてでも持寄り目標を達成しようとの強い気持ちになりました。
新しい試みとしては運営サークル会議内容の「運サニュース」を運営サークル全会員に届け、終盤には新入会員のお誘い動向を刻々サークル代表に流し会員全員で情報の共有化ができました。
一方思うように新入会員のお誘い結果が伸びずに苦戦しましたが、運営サークル担当の必死の努力と幹事の強い支援があって、ようやくクリア出来ました。
このような事態を経験して協力体制の重要性を実感したことと「一人が一人の会員を」という考えを日ごろからもっともっと自分たちの行動として、身に着けておく必要がある事を痛感しました。
「魅力を知ろう会」で嶋田みどりさんが「サークル代表だけが頑張るのではなく一人ひとりが動き力を合わせることが大切です」と熱弁されたことが重い言葉として残りました。
運営サークルのもう一つの側面、プレゼント、お通し、対面式、ロビー交流会など劇団を歓迎する為の色んなアイデアが飛び出し、個性を発揮して全員参加で大変賑やかで楽しい運営サークルだったと強く印象に残りました。 (ハーモニー 阿部)


「蟹工船」の運営サークルに参加して


ポスター貼るところありますか?


あっそうだ。我が家はお寺の前、お彼岸にはたくさんの方がお参りされる、ウォーキングで訪れる方もある、軒先に貼ろう…。多くの方に知ってもらえたと思います。前回の会議に参加の方が「100人に声かけしました」ともお聞きし、手分けしてチラシを配ったりご無沙汰の友にも電話をかけたりしてお誘いをしました。入会には至りませんでしたが、これからも声掛けをしていきます。
魅力を知ろう会(事前学習会)では嶋田さんの演劇や運営サークルに対する熱い思いに触れて運営サークルとは何か?「観に行くだけで精一杯」ではなく会員みんながもう一歩踏み出すことが大事だと感じました。又、劇団員さんの何役もこなす苦労とか「蟹工船」再上演にかける若い方の意気込みとかもお聞きしました。DVDやシナリオで作品に触れ、当日は感動を新たにしました。
今回は40人近くの劇団員さんたちのお通しにも、いろんな知恵や腕前を出し合い良いおもてなしが出来たと思います。運営サークルは、会によって顔ぶれも変わり戸惑う面もありましたが、いろんな方とお会いでき楽しかったです。
(あづっち2 M.I)

運営サークルに参加した体験を糧に

初めての運営サークルへの参加、戸惑う事ばかりでした。でも回を重ね参加する中で、少しずつサークルの内容も理解できるようになり、ひこね演劇鑑賞会は、会員一人ひとりの力が結集され成り立っていることを実感しました。猛暑日の続く七月、運営サークル会議が始まり約二か月余り担当幹事さんをはじめ、各サークル代表の方々の何としても「蟹工船」を成功させようとする熱い思い、本当に頭が下がります。
 また、例会を1ヶ月後に控えた時、東京芸術座制作の嶋田みどりさんのお話を聞くことができ、本当に良かったと思います。嶋田さんは運営サークルにこだわりを持っていらっしゃり、お礼のメッセージの中にもサークル代表だけが頑張るのではなく、一人ひとりが動き、その力を合わせることが大切ですと書かれています。
例会の日も迫る中、具体的役割分担(お通し、プレゼント、交流会)等々決める中で、少しは私もお役に立てるかなと思ったりもして当日を迎えることが出来ました。
これからは運営サークルへ参加した体験を糧にかかわっていきたいと思っています。
(ビバK 松村忠子)

存続の為にも600名を


本や台本を見ても余りにも暗いイメージで難しいなと思っていましたが、事前に岡山で観てこられた方々が、大舞台にふさわしい素晴らしい作品だったと言われました。私たちの目標は何としても前例会クリアしてとかかげて、当日クリア出来たとお聞きした時は大変嬉しかったです。当日は早朝より出掛ける事があり、搬入には参加できず、前日おやつ作りをさせてもらいました。ドア係をしている時、知っている方にもお会い致しました。(お互い入っていることは知りませんでした)
お通しは、牛飯、豚汁、サラダ等を作って下さり、豚汁は男性の方が作って下さいました。皆さん気持ちよく協力されておられました。
新しく入られた方で京都から車椅子の青年がみえたそうです。後でお聞きして熱心さが伝わりました。
反省会にて、皆様のアンケートは100枚程でしたが、何人かは声が聞きとれない、場所により聞きとれなかったそうでそれは残念でした。私たちの場所は中央席で舞台に近く、それは良く聞こえ見事な演技に力をもらいました。鑑賞会の存続の為にも600名をと願います。
(こまくさ M)

東京芸術座「蟹工船」
神谷信弘さんにインタビュー


   

●蟹工船の再演にあたって
 2010年に劇団の50周年企画でなにかしようじゃないかという声が上がったのがきっかけです。蟹工船はこれだけの規模の芝居ですし、劇団員も前回やったときよりもずいぶん変わっています。初演からは、重役の北村耕太郎、船大工の井上哲夫、鬼浅の笹岡洋介の3人だけなんです。いくら東京芸術座でいろいろと勉強しているとはいえ、今の時代の20代30代の子がこの蟹工船をできるのだろうかという意見もありました。やりたい思いと、先輩たちの中には、とても大切な公演だからこそやってポシャッたらたまらないという思いもありました。でも東京芸術座に入ったからには蟹工船をやりたいという声がだんだん大きくなってきまして、「じゃあやるか」ということになり、蟹工船の時代背景や蟹工船を研究されている方とか、小林多喜二のことなどを勉強してようやく立ち上げたという感じですね。
東京公演の時は出演者だけで60数名、今でも65役ぐらいあり、今回は公演幅40名で、俳優は33名、女郎の格好をして出てきているのも演出部です。なんせ幕開きのシーンは船上をいっぱいの人にしたかったんです。

●大人数での稽古の進め方は?
 人数が多いことは置いといて、基本的には最初は本 (台本) 読みを何日かやります。本読みをやる中で自分の持っている役のイメージをそれぞれが出します。演出家が持っているイメージとすり合わせたり、役者どうしのイメージをすり合わせたり、自分が思っていたことと全然違った出かたをすることもあるわけです。それのすり合わせをやりながら、性格分析表と言うのを出すんですよね。それを重ねていき、時間をかけ、役者と役と相手と環境ですよね。今、糞ツボの中なのか甲板の上なのか、蟹工船は大変な重労働をしている現場なんですけれども、たぶん空は真っ青で、カムサッカの青い空の下でやっている仕事はすごい重労働、そういうことをわりと忘れちゃって、重労働やっていると空も暗いどんよりした中でやっている気になっちゃうんですけれど、決してそういう時だけじゃなかったりすることを発見できたりします。じゃあそれで芝居がどう変わるかと言ったら、それはわからないんですけども、その空間とか生きている場所、そういうところのアンテナを広げていって、足が滑りやすいかだったり、寒いかだったりということをつくっていくという感じですかね。
●一人何役となると役の入れ替わり、着替えの練習とかも?
一番多い人で7役やっているんですけれども、次の役まで時間があるときは何とかなりますけれども、間に合わないところは手があいている人が入って早着替えをしたりします。あと違う役をやらないといけないので、それの切り替えというのは先ほど言った性格分析を詰めていって、出番がきたら違う役ができるように訓練しています。お芝居で同じ役でも「わーいやった」と言って、明かりが消えて次に点いたときには人生のどん底に立っていないといけないというシーンは普通にありますよね。暗転、明かりだけで切り替えないといけない。どうすればちゃんと脳髄から筋肉から目玉からそういうふうに切り替えられるのかは、私たちの課題ですし、そのことをずっと追求しています。役のそのものに入っていく過程は人それぞれのやり方があると思うんですけれど、瞬間で切り替わるというのはみんな技術として持っていると思います。

●神谷さんにとって東京芸術座は
子どものころ「夕鶴」という芝居についていました。「夕鶴」のスタッフをささえていたのが東京芸術座の今の舞台監督で来ている幡野寛さんという先輩なんですが、ずっと面倒を見てもらっていました。東京芸術座の芝居は子どものころからずっと観ています。観てきた中に「勲章の川」というお芝居がありました。戦争中、中国人を強制連行してきて働かせて、蟹工船よりもっとひどい、殺して当然という状況で実際何人もが死んでいるんです。そこで蜂起して心ある日本人や米軍の捕虜収容所の人と連帯して、戦争勢力をぶっつぶそうとするんですが、多勢に無勢で鎮圧されてしまうという歴史がありました。その話を秋田県大館市の高校の先生が授業で取り上げるというお芝居なんです。その話は実話なんですがタブーにされています。それに蓋をしちゃだめだという思いが先生にはある。先生と校長先生の想いと、村には実際に鎮圧に関わった人たちの葛藤がいろいろとあるんです。鎮圧に関わってずっと十字架を背負って口には出さずにいた主人公のお父さんが、最後に中国人の慰霊碑を抱きしめて緞帳が降りるというお芝居です。観終わるともう客席から立てないぐらい感動して、この劇団に入りたいと思いました。高校生でした。そのころ「神谷おまえ芝居だけは絶対やっちゃだめだぞ」「芝居なんかやったら飯食えないんだからな」と言われて「そうかもしれないな」と思い、高校を出て3年間プログラマーの仕事やったんですけれど、やっぱりだめでしたね。また戻ってしまいました。芝居をやろうと思い東京芸術座に入りました。東京芸術座には規約がありまして「人々に愛と勇気と情熱を伝えることができるお芝居を創ることによって社会に奉仕することを目的とした芸術創造団体であり、演劇運動団体である」と書いてあるんです。それが私の誇りでここにずうっと居たい理由です。

●演劇鑑賞会について
やっぱり、一緒に作っている感じと言うか、今日初めてお会いして、本番終わったら次いつ会えるかわかりませんが、その一体感と言うかそれはあります。蟹工船を立ち上げて九州を回り始めた頃に、九州の鑑賞会の方から感想をいただいて、建設的な問題提起をいただきました。大きな変更はできないのですけれども、それこそ照明をもう少しここだけ明るくしてとか、音とセリフのバランスがもうちょっとどうにかならないかとか、あそこのシーンは暗くていらいらするお客さんが多いだとか、そういうご意見があるけれど演出を通して対応できるか、演出の方からプランナーにいってオベレーターにいってという具合に変更しています。一緒に作っている、育ててもらっているというか、何しろリアルにわかるのは開場のときからもそうですけれど、緞帳が上がった瞬間、緞帳が降りる瞬間、芝居中はもちろんですけれども客席から舞台にくる圧力というのがまるで違います。そのみなさんの一体感というのがやっぱり芝居に大きく影響してますよね。

●運営サークルへのエールをいただけませんか
みなさんの芝居に対する熱い想いをどんどん感じてきます。劇団の人がみんな喜んでくれるようにといろいろなことやって下さっている想いが伝わってきているので感謝でいっぱいなんです。
なんせ、みなさんが観続けてくださることがどこの劇団も力になります。これからも熱い想いでお芝居を作り続けます。

●大切にされていることは
一般的ですけれども「初心忘れるべからず」「一期一会」ですかね。それが基本かなと思っています。

●蟹工船で伝えたいこと
蟹工船はいろんな人が出てくるので観たお客さまの人生分だけ蟹工船があるんですよ。
 蟹工船の最後「もういっぺんかっくらわすぞ」「そうだ、もうじゅっぺんだってもな」というセリフがあるんですよ。その時、私は唄をうたわないといけないので袖で着替えているんですけれども、そのとき…今思っても泣けてくるんですよ(涙)。やっぱり全部同じ想いの人はいないわけで、生きてきた歴史が違うわけですから、だけどなにかに向かってこのことを守ろうといったときに、カーテンのセリフで「相手は10人足らずでこっちはこれだけだ」「あいつらが一番怖がっているのは、みんなが固まることだ」、みんながいい世界になれるように、みんなが繋がれる一つのチャンスになればうれしいです。


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