2019年2月26日(火) エイコーン公演 原作:エディット・ピアフ 翻訳:中井多津夫 |
●エディット・ピアフの生い立ち
1915年、パリ20区のベルビィルに生まれる。
母親は歌手、父親は大道芸人。経済的に困窮した両親により、フランス北部ノルマンディーで父方の祖母が営んでいた売春宿に預けられ、そこで幼少期を過ごす。
3歳から7歳まで角膜炎で目が見えなかったが、祖母の元で働く売春婦がリジューのテレーズのもとへ巡礼に行ったことで視力が回復したとされる。
16歳で御用聞きのルイ・デュポンと恋に落ち女児マルセルを出産。だがマルセルは髄膜炎のため2歳でこの世を去る。
1935年にナイトクラブのオーナー、ルイ・ルプレーによって見出され、彼の店で歌うようになる。エディットの身長は142cmにすぎず、その小柄な体からルプレーは、後の芸名となる「小さなスズメ」la Mome Piafの愛称を与えた。
1940年にはジャン・コクトーが彼女のために脚本を執筆する。
俳優のモーリス・シュバリエや詩人のジャック・ボーガットと知己となる。
ピアフの代表曲「ばら色の人生」は第二次世界大戦のドイツ占領下に書かれた。この曲は1998年のグラミー賞名誉賞を受賞している。戦後、世界的な人気を得、ヨーロッパ、アメリカ合衆国、南アメリカで公演旅行を行った。1947年のアメリカ公演でマレーネ・ディートリヒと知友を結び、2人は生涯にわたる親友となった。
ピアフの生涯の大恋愛はプロボクサーのマルセル・セルダンであるが、1949年飛行機事故で亡くなった。
1951年に自動車事故に遭いその後、深刻なモルヒネ中毒に苦しんだ。
ピアフは2度結婚している。最初の夫は歌手のジャック・パル 1952年〜1956年
二人目はヘアドレサーから歌手、俳優へ転身したテオファニス・ランボウカス、ピアフより20歳も若かったが1962年結婚した。
彼は、妻ピアフの死後、妻の残した700万フランあったと言われる借金をすべて返済した。
1963年10月10日 47歳 リビィエラで癌により死去する。
●ピアフの資料をいろいろ集めてみました。
まずCD「エディット・ピアフ」オール・ザ・ベストを買って聴いてみました。「愛の讃歌」「バラ色の人生」をはじめ聴きなれた曲が沢山入っています。フランス語なので意味は分かりませんが、とても魅力にあふれています。
今回の劇の原作となったエディット・ピアフの自伝「わが愛の讃歌」。病床のベットで彼女自身が、自分のことを語って残したかったピアフの物語です。「いいえ、私は何も後悔しない」いろんな出来事があっての今の自分がいると。
文庫本の「エディット・ピアフという生き方」を購入して読み始めましたが、読み易くてピアフの人生を語れるようになりそうです。
DVD「エディト・ピアフ 愛の讃歌」も観ました。ピアフの歌声でマリオンコティヤール主演の自伝的映画。ピアフの人生の概要を知ってから観ると楽しめます。
DVD「エディト・ピアフ コンサート&ドキュメント」は、廃盤で希少品なので、中古品はかなり高額になっていますが、なんとか手に入ります。
これを入手して事前学習会でこのDVDを皆で観る事も考えています。
ピアフの波乱にとんだ人生について予備知識をもって、どのように舞台で描かれるか関心をもって観たら、とても楽しめそうです。